ない地上 ) だれもがそう観ている : : : 」と書いていたわけです。そ の六月、ダレスが朝鮮の前線を視察し、韓国軍の将兵に向かい「諸麻鳥と蓬子 君が、諸君の力を示すことができる時期は遠くない」と演説した直 平岩弓枝 後、朝鮮戦争は勃発したのでした。そしてその年のすえ、「国連軍」 こ上陸、そして一方三十八度線を突破し、これに対して中国 か仁月し 人民義勇軍が朝鮮戦線に出動しついにアメリカと中国の二大国の対「新・平家」を読みはじめた時、私はまだ学生だ 0 た。 父が買って来て読んでいるそれを、終るのを待ちかねて、時には 決を思わせられた。その直後には、 「はからずも、この騒乱 ( 保元の乱 ) の帰着は、結果的に、義朝ちゃ 0 かりお先に失礼して読んだのは、ちょうど「宮本武蔵」の連 対清盛の武力に賭けられるしかありません。・ : ・ : 天意の皮肉、歴載中と同じであ 0 た。違うことは「宮本武蔵」の時は、まだ幼女 史のおもしろさ、じつにそれは、人為を超えた自然の大作用が人で、お通さんの登場するさし絵が魅力で、あとはも 0 ばら父の説明 によって小説を理解しようとしていたのに、今度は自分自身で楽し 為のほかにあることを証しています。そしてこの時を境として、 源平紅白の二世界に地上は染め分けられました。紅地帯に住むめる程度には成長していたことである。 者、白地帯に生きぬく者、いわゆる源平時代はここに始まり、平大体、中学から高校にかけての私は、同じ年頃の娘たちが読むよ 安朝貴族の夢は今、終焉の炎にくるまれています」 ( 一九五一年、うな小説をあまり読まなか 0 たらしい。恋愛小説と名のつくものは 照れくさがって敬遠していた。 昭和一一十六年新年特別号、「前号までの梗概」 ) で、その頃、もつばら読んでいたのが日本の戦記文学で、これは と書いているのです。 ここには吉川さんが意識しようとしまいと、激烈な朝戦争の新古典のまま、わかってもわからなくても声を出して読んで、満足し 局面が吉川さんの気持をたかぶらせているのを見とることができるていた。 のではないでしようか。つづいて貞明皇后の葬儀が行われたちょう殊に「平家」はリズムがよくて、書き出しの「祇園精舎の鐘の どそのとき二条天皇の大葬の場面が描き出されるなどの例をここに声、諸行無常の響あり」の条りは、暗記して得意になっていた。 余分なことだが、いつだったか、「新・平家」を邦楽界の人々が 列挙するのは止めましよう。 重ねていいますがそれは作家にと 0 て決して不名誉なことでも恥分担して作曲した演奏会に出かけ、最初に杵屋正邦さんの作曲にな じ入るべきことでもありません。むしろ作家の現代に生きる歴史意る「祇園精舎 : : : 」を合唱合奏できいた時になんともなっかしく、 、つしょになって声を出して歌い出したいような感動をおばえたも 識の問題として評価されてよいものでしよう。 問題はそれが新しい歴史をつくる方向に向いているかどうかにかのだった。 「新・平家」は長く続いた かっています。 そうした視角で「新・平家」を鑑賞してみるのも面白いのではなその連載中に、私は学校を卒業して、小説を書きたい女にな 0 て ( 歴史学者 ) でしよ、つか 3
の筆に、ある種の緊張したリズムを導き出されたかもしれないといの質の高さによって測られねばならないことはもとよりです。 うこととは矛盾しないからです。それはさきほどの高山右近の場合「戦争には、上下一般、実は内心、恟々たるものをも 0 ていた。 火ダネは、いたるところにある : でもそうでしよう。 ( あぶない地上ーー ) 作家が自ら生きた時代、自ら接し だれもがそう観ている。いつをも知 た事件に触発されて、それによって過【、 ) を 氏れない世の中を感じている」 去をふりかえり、歴史の中に題材をも、 の「週刊朝日」に連載をはじめたばか とめて作品にまとめていくことは当然 阿りの「新・平家」にこの一節が現れた あり得ることです。森鷓外は、乃木大 のは一九五〇年四月二十三日号で、実 将が明治天皇のあとを追って自刃した 高に朝戦争勃発の二カ月前のことでし ことから「阿部一族」を書き、また米 者た。そうした戦争の危険が、前年の下 騒動のときそれを見て、刺激されなが 著 山、三鷹、松川事件のあわただしい空 ら「大塩平八郎」を書いたことは何ら ~ 、 ~ よ 気にいっそうかきたてられていたもの 不名誉なことでないのは勿論です。中一 , 。色霧彎 右 です。その一九四九年は、すでに中国 里介山が「大菩薩峠」の中で書いてい まらはちだいじん 中の内戦に毛沢東の指導する人民解放軍 る「鰡八大尽」が第一次大戦当時の。 送の勝利が明白となり、蒔介石は台湾に 「戦争成金」ことに浅野や大倉を諷刺 退き、アメリカの第七艦隊が台湾海峡 していることは明白ですし、真山青果 4 ' ・の、 一に出動してかろうじて人民解放軍の追 が一九二四年 ( 大正十三年 ) に「玄朴 と長英」を書いたのには当時のインテ 術撃をおさえたという状況でした。アメ 、第〕芸リカが、それまでの極東政策を手直し リの思想と実践のあいだの悩みが投影 てして、日本列島を不沈空母に、日本の しているといえるでしよう。一九三六 産業を兵器廠に、日本の青少年を植民 年 ( 昭和十一年 ) 藤森成吉は前進座の 「一 e 地土民軍に、使おうという三つの大き ために戯曲「シーポルト夜話」を書 な方針を立てたと伝えられたのもこの き、同じ年に貴司山治は新築地のため ころのことでした。それを裏づけるよ に戯曲「洋学年代記」を書きました うに、連合軍司令官マッカーサーが吉 が、それらは、当時の天皇制特高警察 下の学問と思想の自由への弾圧への作者のプロテストを考えないで田茂首相に警察予備隊をつくらせました。 は理解できないでしよう。ただその成功不成功はあくまで作品自体吉川さんはそうしたキナくさい空気を敏感に吸いながら「 ( あぶ 2
目次 「新・平家物語」の 1 ) 1 社区幻 己 1 ・ : 高橋磧一 歴史的後景・ : 京 ・ : 平岩弓枝 麻烏と蓬子・ : 報談都 2 ・ : 扇谷正造 ″草の実党″の人々 : ・ : 松島雄一郎 第 9 京羽 吉川さんの顔 : 1 講東音 : 桔梗 吉野村行 : 題字町春草 必要以上に文字の上に高くなったりするものだということを話され たのち、しかし、ここで一つそれをねらってみようなどと先に意識 「新。平家物語」の歴史的後景 して文字を書いたら何にもならないことを強調されたものです。こ 吉川文学鑑賞の一視角として れには、勿論、阿部さんも私も同感でした。 ( きて、その座談会の最後のころでしたが、吉川さんは、先の「宮 高橋碵一 本武蔵」の書き出しのドロンコの戦場の場面を書いたときの思い出 「新・平家物語」がいよいよ完結するという一九五七年 ( 昭和三十を話されました。それは、府中競馬場で雨の中の障害競走を見てい 一一年 ) の二月、ラジオの " 芸術千一夜 , で阿部知二さんと私たところ、ドロンコの馬場で馬が転倒し騎手が落馬する。一瞬 ( ノ が吉川さんをはさんで「時代小説の魅力」について話しあ 0 たこととする。騎手の桃色、みどり色があざやかで、悲惨というより美し い。そして人間の上を馬は蹴りもせず、さっとレースしてしまう。 があります。そのとき私がこんな話題を出しました。 吉川さんの名作「宮本武蔵」のトップシーンは関ヶ原の死屍累々そのときの状景が眼に焼きついてあの書き出しができたのだ、とい たる戦場だが、それが朝日新聞に載りはじめたのは満州事変が文字うわけです。 通り「どこまでつづくぬかるみぞ」という状況になっていたときだ歴史家が、なんとか作家の執筆当時の歴史的背景と作品の場面と った。また、戦後、吉川さんが読売に連載した「高山右近」のトツをつなぎあわせようとする、そんな作業がこの話をきいてはまこと プシーンでは瀬戸内海を静かに進む船上に立っ右近の姿が描かれてにナンセンスに見えて三人とも大笑いしてその録音を了えたもので いたが、当時は太平洋戦争で遠く外地にあった将兵が次々と引揚船した。 で母国に帰りついたころだ「た。こうした周囲の状況というものは話はこれだけのことなのですが、ここには吉川文学を、そして 作品のなかみと無縁ではないのではないか、というのが私の出した「新・平家」を鑑賞する一つの視角が語りあわれているように思え ます。というのは、吉川さんが雨の日の府中競馬場の落馬の一瞬の 話題でした。 吉川さんは、そうした「世間の物音とみんなのくらし」を作家は印象から「宮本武蔵」を書き出されたという事実と、当時吉川さん たしかに意識している。だから世間の物音によ 0 て自分のタッチがばかりでなく、日本国民のおかれていた歴史的な状況から吉川さん 1